僕とタコスと居場所とタコス
本記事は2/23(土)開催予定のイベント おどりばのいどばた#10『おどりばってなんですか?』に寄せて、『居場所』をテーマに綴っています。
2012年1月。メキシコシティの知らない地区の、知らないホテルの一室で、僕はLG製のテレビのスイッチを入れた。
5歳くらいの若い男女が抱き合ってチューをしている様子と、それを50歳くらいのおじさんコメンテーターのような人がワイプ越しに真顔で解説する映像が流れていた。なんだこの国は。と思った。
僕は、初めての海外旅行先にメキシコを選んだ。
なぜか。それは、自殺率が低いからである。
当時、僕は、幸せとは何かを考えていた。幸せとは何かを探る旅をしたいと考えていた。幸せとは何かを考えるにあたって、なぜ日本は自殺率が高いのか、を考えた。
以下は僕が当時wikipediaで見た世界の自殺率のマップである。WHO(世界保健機関)が1978年から2007年の人口10万人あたりの自殺率データを示したものである。赤が自殺率高くて青が低い。日本をはじめとするユーラシアが赤くて、中南米が青いことが分かった。
(Suicide rates map-en 16 April 2007 Author Bamse)
もう少し調べていくと、どうやらメキシコが世界一自殺率が低いという情報が見つかった。
さらに、とある研究によると、メキシコ人はうんこが大きいから、自殺率が低いという研究結果まで見つかった。うんこと自殺率には相関関係があって、うんこの大きい国は自殺率が低く、うんこの小さい国は自殺率が高い。自殺率の高い日本は、食生活の変化により食物繊維摂取量が減ったので、うんこが小さいのだという。
“バカな研究を嗤うな ~寄生虫博士の90%おかしな人生力 (tanQブックス)”
唐突だが、僕は本屋さんが好きである。本屋さんにいる時間は幸せと言って良い。小さい頃からそうだった。近所の宮脇書店に行って、持ってもいないゲームの攻略本を眺めているとワクワクした。ワクワクして、うんこがしたくなった。中高生になって小説とかを読むようになった。宮脇書店の文庫本コーナーで裏表紙に書かれたあらすじを読んでワクワクした。うんこがしたくなった。宮脇書店のトイレで何回うんこをしたかは分からない。申し訳ない。だけど、僕はおかげで一つの真実を知ることができた。僕にとって本屋さんは幸せであり、幸せの指標はうんこである、と。化学的な根拠はないけれど、うんこと幸せは絶対に結びついていると、僕は誰にも言わなかったが子供の頃から知っていた。
そんなわけで、自殺率が低いメキシコとうんこの関係を知ったときは目の前の霧がブワッと晴れた。うんこ大国メキシコは、僕にとって幸せを探る旅として未知なる可能性を感じさせる第一候補地になった。
そんなこんなでメキシコに降り立った。
メキシコに降り立って、タクシーの行き先を告げるも全く違うホテルに連れて行かれた。
しょっぱなからなんだこの国は、と思って、ホテルの中でテレビを見てもなんだこの国は、と思った。冒頭である。
メキシコの首都メキシコシティをメインに1ヶ月間滞在した。その中で、たくさんの「なんだこの国は」があったが、ふり返ってみて一番心に残っているなんだこの国はは、街中に普通に存在する屋台の多さだった。
ありとあらゆる路上にタコスの屋台があった。朝でも夜でも人がいて、美味しそうな匂いを町中にプンプン漂わせながら、淡々と営業していた。
そのなかでも、夜にしか現れない屋台もあったり、時間によりメニューが変わる屋台があったり、タコスだけでなくスープやフルーツの屋台もあったり、どの屋台もそれぞれの個性を持っていた。
僕にとって屋台は、お祭りのときにしか体験できない特別でワクワクな存在だったので、何でもない日でも路上で営業をしているこの文化に、初めての海外経験であることも重なり本当に衝撃を受けた。
(日本でもかつては何もない日の町中に屋台があったらしい。天ぷら、寿司、そばなどは江戸時代の町中で屋台として広まり日本食としての地位を確立した。その後もおでん、焼き鳥、ラーメンなどとジャンルが増えていったが、東京オリンピックを機にまちを整備する様々な法律規制によって姿を消していったと言われている。)
僕は現地の人と一緒になって何度もタコスの屋台で食べた。タコス屋台は、現地の言葉を話せなくても、とりあえずくれと言うと簡単に食事ができた。
屋台の前には椅子が適当に置かれ、そこで座って食べた。椅子がない屋台では屋台の周りで立ち食いをした。食べ終わったらお皿を返し、料金を自己申告して、汚くなった手で汚れたお札を払って帰る。当時タコス一個が40円ぐらいだった。5個ぐらいで満腹になった。
このタコスの屋台は、いまの僕にとっての「居場所」の概念に結構影響を与えている。
タコスの屋台は誰に対しても開かれていた。学校帰りの学生にだって、出勤途中のおっさんにだって、勤務中の警察官にだって、買い物帰りのおばあさんにだって、外国人旅行者の僕にだって、誰にだって開かれていた。
屋台に出来上がった空間は、ただ「タコスを食べる」目的で集まった人たちによる空間だった。そこでは肩書きや地位なんて関係ない。国籍も年齢も関係ない。完全にフラットな空間だった。敷居がものすごく低かった。
これだけだと日本で言えば、コンビニだったり牛丼屋だって同じ感じじゃないかと思われるかもしれない。しかし明らかに違うのは、それが路上にむき出しで存在していることだ。これ以上にオープンな場は無い。
しかし、オープンであるからこそ、周囲から見ると、公共空間のなかにぽつりとコミュニティようなものが出来上がっているように見える。こういう場では、その場にいる人たちの一体感が生まれるのか、客同士や店主との会話が発生する。(もちろん、まったくしゃべらずに黙々と食べる人もいる。)
僕も、外国人であって珍しいからと言うのを抜きにしても、現地の人と会話をするきっかけが多かったのがこのタコス屋台だった。
むき出しである他に、屋台というすごく小さいスペースのなかで、店と客、客と客同士の距離がものすごく近いことが会話を発生させているのかもしれない。
簡単に入っていけるのに、距離が近い。刹那的な居場所が出来上がっていた。
普通に暮らしていると、普段の生活のなかで、町にいるまったく関係ない他者の存在を間近に感じる場面はあまりない。
でも、タコス屋台があるメキシコシティには、他者の存在を感じる場面が日常にある気がした。
他者の存在を感じることで自分の存在を感じ、人とのつながりを感じることで社会とのつながりを感じる。
これは幸せに繫がる話じゃなかろうか。
そういえば実は、僕がいま友人と行なっているサードプレイス実験としての愚痴聞き屋も、個人的にはタコス屋台に対する想いを継承している。
なるべく人々の生活に近いところで、むき出しに。地面のすぐ近くに。
究極にハードルを下げた場を作りたいと思ってやっている。
うんこから始まる幸せを探る旅から考えたことは、タコスと居場所という、考えてもいないものだった。
町に溢れるタコス屋台という場が、もしかしたら人々の幸せに貢献しているのかもしれない。
ちなみに、メキシコの食とうんこの関係はいまいちよくわからなかった。美味しいものをたくさん食べたので確かによくうんこは出ましたが、タコスはそれほど食物繊維は多くない気がするので、他の食べ物が要因なのかなと思う。
偉そうに語ってきたけれど、タコス屋台と幸せの関係も、まったく根拠はない。全然関係ないかもしれない。
それでも、タコスの屋台にいる時間が刺激的で心地よかったことを今でも思い出し、また行きたくなる。
居場所とは、また行きたくなる場所、という結論で無理矢理終わりたい。
この記事へのコメントはありません。