“カモフラージュ”の着こなし方

住人

初対面の人と話す時、取引先でその場限りの応対者と面する時、コンビニで買い物をする時等…。本当の自分を見せず、「外」に向けた自分自身で接するときに、うまくカモフラージュ出来る人と、そうでない人とがいると考えている。

僕は、おそらく前者だ。

でも。そもそも、「本当の自分」がどのことを指すのか、自分ですら分かっていない。仕事場にいる時の自分、家族といる時の自分、パートナーといるときの自分、買い物をしている時の自分。自分1人をとっても、まるで阿修羅像のように、向きによって、時間によって、TPOによって、全く違う自分がいる。その全てが僕で、その全てが僕ではない。そのうちの一つの場面にでくわしたときに、僕は「僕」を演じることによって、本当の自分を見せないように、カモフラージュを着こなしている。

いきなり会った人に、自分の内面をさらけ出すなんて恥ずかしい。そもそも、自分が見てきた景色や経験が、人にとっての当たり前ではないことも多くて、とてもじゃない。つまるところ、他人に合わせた、いわゆる「流れ」にのった対応をすることこそが、まさにカモフラージュになる。

同じ目標をもってる他人の集まり、つまり職場やコミュニティでも、共通項がある分、カモフラージュしなくていいところは多くなるけれど、やはりその場にふさわしい、自分のあり方を演じて、魅せて、それはつまりカモフラージュになるのかもしれない。今日のコーデはどうしようかな、少し勢いよく自分の意見を言ってみようかな、今日はおとなしめにしようかな、だなんて、本屋に置いてある雑誌にはのっていない、大人のコーデだった試してみよう、だなんて、そんなことを思いながら、気候や気分、体調、出来事なんかを加味しながら、頭のてっぺんからつま先までを繕っていく。ときには、そのコーデがちぐはぐになってしまって、かえって悪影響を周りに与えることだってあるから、そこはうまく注意しながらやらなければならない。でも、服装とは違って、その場その場でやり直しがきくから、化粧室で顔を洗って出直してくることだって可能だ。カモフラージュの着こなし方は、意外に自由だったりする。

だけど、自由だからこそ、自分の身体がどれなのか、主体がどの形なのか、良くわからなくなってしまうこともある。そもそも、カモフラージュは悪いことばかりではなくて、言わなくていいことを言わないでおく場面ではとても役に立つ。おっ、と自分の全てを出しそうになってしまう前に、あるべき姿に戻ってみる。そうすると、問題になりそうなことでさえも、以外とそのまま乗り越えることができたりもする。だから、そっちの自分の方が楽だったり、うまく言ったりしてしまうと、私はそれでいいんだとなって、カモフラージュした自分があたかも自分そのものであるかのように、ずっと振舞ってしまう。

はたして、それは間違いなのか。

はたして、どんな自分が、自分なのか。

カモフラージュの着こなし方。

どのようにやってのけていますか?

それぞれなコーデがあって、それぞれのカモフラージュが、それぞれの色を持って存在している興味深さ。特別に答えが出ているわけでもないんだけど、この迷いが気持ち悪いと思ったこともない。人はみんな気分屋で、人はみんなそれぞれの場面で、なりたい自分になろうとするもの。

見方によったら、まるで自分に嘘をついて、自分を作っているような、そんな感覚にも陥りそうになる。

でも、そのカモフラージュで、仕事をうまくやってのける人がいる。世界は動かされている。オンとオフの、オンで回っているようなものだから、カモフラージュは、時と場合でとっても大事かもしれないんだ。

これからもうまく着こなしていけたらいいな。

10号室より、てぃーたつでした。

t tatsu

山梨在住。あっちいったりこっちいったり、浮き沈みの激しい人生。音楽、本、映画やことばを好みます。多趣味多忙が代名詞。 …「あたりまえ」のことは、そうでもない...

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