すべての命は本当に尊ぶべきものなのか

住人

命は尊い。

そんないわゆる「当たり前」とされるこの概念に常々、疑問を感じている。

7/13~25までの13日間、私はコロナの脅威真っ最中の東京にいた。
慶応義塾大学病院にて今年行われる予定の小腸移植治療の前段階として、心臓を手術するためだ。心臓を手術するのは、これで4度目。

僕は自分が生涯受けた手術の数を覚えていない。心臓は4回だが、それ以外にもたくさん手術を受けている。
といっても30年前の記録は残っていなし、サマリー(過去の病歴をまとめた医療情報)にも回数は載っていない。親も50回から上を数えるのをやめたらしい。

僕が「命」について考えるのは、決まって夜の病室だ。
それも手術前日が多い。
どうせ麻酔で眠るんだし、と夜更かししながら死について意識と問い続ける。
今まで消えていったたくさんの命が、その人の笑顔と共に溢れてくる。
小さい頃仲良くしてくれた近所のおじさん、戦友の小さな仲間たち、祖父母。
それに、特に最近は命についてのニュースが多いように思う。
そこで今回改めて命について、考えを述べてみようと思う。

  1. 命に差をつける
  2. 命は「数」か「個」か
  3. 死が望まれる瞬間とは
  4. 死への様々な問い
  5. まとめ

1.命に差をつける

そもそも命は同等なんだろうか。
「命は平等であり、何事にも代えがたい」この原則がなにやらおかしなことになっていると思う。
もしかしたらずっと昔からおかしくなっていて、自分たちはそこに違和感すら覚えず、気持ち悪さも感じず、だけどどうしたら良いかわからない。日常生活の多忙さに何千倍にも希釈してしまっているのではないか。

命の差を考えるときに、医療におけるトリアージ(大事故・災害などで同時に多数の患者が出た時に、手当ての緊急度に従って優先順をつけること)が代表的なものだと思う。より多くの人々を救おうとするとき、その可能性にかける。

だけど、命は「数」にしたとき、その個別性を一気に失う。
「何名亡くなった」と知るよりも、「3丁目の○○さんが亡くなった」と知るのとでは感覚が異なる。もちろん、個別具体的な人の死には生きている間にどれだけ交流をしたかによってその感覚も違ってくる。

自分はトリアージを目の当たりにしたこともなく、一般的な知識しか持ち合わせていないが、トリアージこそ命を個ではなく、数で見る代表格だと思う。

例えば、大勢の人が巻き込まれた事故が起こった場合。
小さい頃からずっとよくしてくれていて、社会人になっても仲良くしてくれた隣の家のおばあさん、出勤時によくすれ違う小学校の男の子、子どもを身ごもった見知らぬ妊婦さん、日本で数名しか話せる人がいない外国語を話せる見知らぬ国家公務員。

この人たちが一挙に何かの事件や事故、災害に巻き込まれとしたら、私たちは誰に助かってほしいだろう。

でも、現場ではおそらく「命は平等」だと思う。今ある限られた医療資源と時間のなかでひとつの命が助かる可能性にかける。

これはとても残酷だけど、おばあさんは見知らぬ誰かからすれば、見知らぬ誰かに過ぎない。毎日車で横を通る会社員からすれば、小学生の男の子は「たくさんいる通学している子どもの一人」でしかない。

自分がどちら側になるか。何かが起きてみないとわからない。

2.命は「数」か「個」か

命は「数」にしたとき、その個別性を一気に失う。

では、死に対して悲しみを覚えるのは、どこからなのだろうか。命は、感情に支配されやすく、理性の判断が難しくなるものだと思う。

身勝手な暴挙で10名を無差別に殺害した死刑囚の死刑執行と、みんなから愛された若い有名俳優の自死、日本中を笑わせた大物コメディアンの疫病死。

これらは等しく多くの人たちの同情を誘うものだろうか。
先ほどにも少し触れたが、関係性も重要だと思う。

祖父母両親の老衰、きょうだいの死、友人や恋人、ネットで知り合いたまにリプを送り合う人、DMで毎日のように話してる人。
何年も会ってない大学の先生がある人突然亡くなった。あるいは半年前に行った喫茶店のお母さんの死を人伝いに知った時。
顔も見たことがないけれども、地元の署に勤めていた警察官の殉職をニュースで見たとき。
おくやみ欄に載った知り合い。同じページにある他市の人の死。
火葬場でたまたま横に並んだ人の写真。
何年もずっと同じところにいたホームレスがいつの間にかいなくなっていた。

…など、例をあげればきりがない。

3.死が望まれる瞬間とは


ある死は「誰か」によって望まれることもあるかもしれない。
いわゆる「死んで当然」だ。

なんて恐ろしい…と思う人はいると思う。
でも思わなかっただろうか。

学校で何年も何年もいじめられたとき。上司に他の同僚がいる中で罵詈雑言をぶちまけられたとき。

思わなかっただろうか。
「自分なんて死んでましだ」と。

いじめられるのは自分が悪いからだ、こんなに怒られるのは自分が悪いからだ。

人に向かう殺意は、理性がききやすい。

死んで当然、と思いやすいのは、自分自身になることが多いのかもしれない。

自分を責めるのはとてつもなく、「楽」なんだ。
「人と過去は変えられないけど、自分と未来は変えられる」という自己啓発でよく聞くこのフレーズだが、捉え方に寄っては非常に恐ろしさを伴うと思う。

自分の死について考えるときがある。
「自分のいなくなった世界は、果たしてどうなっているんだろうか」
自分はそんなことを考えて、眠れなくなった夜もあった。
ただ、事実として、誰が亡くなっても世界は回り続けている。

自分がいなくなった世の中に影響を与えるのは、ごく一部の身近な寂しさを感じる人だけ。

元々の交流関係ももちろんかかわってくるけども。

死を知る時というのも大事だ。
目の前で亡くなった命。
数日後に亡くなった命。
人伝いに聞く命。
新聞でみる命。
なくなったことを知らない命。SNSだけでのやりとりだったら、リアルを知らない人同士のつながりだったら、その人が亡くなっても浮遊霊となり続ける。

4.死への様々な問い

  • 死ね、という言葉を言う大抵の時、本当に強い殺意があるのだろうか。
  • かえってこない命に想いを馳せるのは何故なのか。
  • 宗教が果たす役割とは。
  • 死とお金について話すことは何故不謹慎とされているのだろうか。
  • 遺産以外のことを示している遺言書に何の意味があるのか。
  • 個人の遺志と異なることをしたら、バチはあたるのか。
  • 「死んで当然」はどこまで許容されるのだらうか。
  • 自死を止められなかったの悔やみ続けることは、何故しんどいのか。

    …などなど、たくさんの疑問が浮かぶ。
    これの分類を自分なりの答えを、これからもつくっていく必要がありそうだ。

5.まとめ

ここまでで気づいたことがある。
最初「命」について考えてきていたのに、いつのまにか「死」についてシフトしてしまっていること、そして「不安」「ショック」「嘆き」など感情面での記述が多く、より理性的に書けていないということの2点だ。

命を考えるときには、「生」と「死」両方について考えるべきなのだろうか。
生きていることは怖くはないけれども、死は怖い。
怖いのは死の在り方がどうなのか、わからないからだ。
そうなると、「死後の意識はどこにいくのか」とか「魂の行方」とかの話になってしまう。
わからないことは考えてもわからない。
でも、気になる。
この「死」」というテーマは、「命」と同列に語られることもあるが、実質「考えても仕方のないことだけど、常に問い続け考え、自分の中でクッションの空気を入れ続ける」というのが今の自分の結論だ。

次回の更新日は8/26。
内容は1年前から決まっていました。
ありのままのさらみを、だしたいと思います。

sarami

生き意地の汚い人生を 送っています。

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