10ページ先と後ろ

10ページ前の人生では、一つの事実がとても前向きに進んでいて、これからの未来はどのように書き換えられるのかにわぬわくしていた。とある人は、そこで巻き起こる自分を主人公にした自分だけの物語が、うまくどんどんと進んでいって、ときに壁を作ってくる怪物や出来事がおきても、必ず乗り越えてその先にある毎日に、どことなく漫然としたものもあるけれど、希望を必ず抱いていたこともあるだろう。

そして、今のページでは、起こりうるはずもなかった出来事に憔悴し、生きることとは乗り越え経験すること、とわかっていながらも、ときに他人に意見を聞きながら、自分の存在証明を求めながら生きている。おそらく、作者にも当事者にも青天の霹靂だったことであろう。

そのあとの10ページは、まだまだ空白だらけ。それを書き加えるのは、その人自身。でもそこには、wikiみたいに、たくさんのediterがいて、横槍を投げてあたかも面白い事実を、歴史を作ろうとする動きもきっとあるだろう。でも、その事実を自分の人生そのものとして作り上げていいのは、その本人だけ。結局作者は自分はしかいないものだって。

けれど人生は、その先10ページが本当に存在するかは、誰にもわからない。作ろうとする草稿が突然破られて、強制的にthe endになりうるのが、人生という作品だ。作品、というよりかは、物語、といったほうが誤謬がないだろう。明日はくる、それはとても希望に満ちたことばだけれど、刃の上を渡るような感覚も持ち合わせているのが人生。生身の動物である以上、死から逃れることはできずにいる、儚いものだ。生まれたときから、このように文章を、言の葉を紡ぐ力を与えられた私たちは、その生きた証を、生きている事実を、この今こそを記録に、記憶に残す能力がある。文字を持たない人々さえも、言語という生きた形で、それを伝承する能力がある。それはなぜだろう?

自分に希望を持たせるため?

生きた意味を問うため?

愛を伝えるため?

その全てが正解だろう。

未来は、残すことはできない、できたとしても、その未来が過去になった瞬間に書き直さなければ、それは仮想の現実、ということになる。現実の歪曲、ということになる。未来を書くと言うことは未知への挑戦状を描いてるのに他ならない。それもそれで、きっと面白いし、それが思う力の願望実現の力になることも、それはそれで証明できるのかも、知らないけれど。

時を戻すことも能わず、時を進めることは今を進むことでしかままならない人生、僕らは結局、

今を生きることに、全力を注がなくては生きながらえることはでできない。

生きる、の後どうなるかはわからない。未来の10ページに記された「事実」が真実になり得るかどうかは確実性もない。起こり得ると考えてもいなかったことが今起こっている現状で、希望を後ろの10ページから得ることができなさそうであっても、今は止まらない。

今を止める方法だってある。それを肯定するわけではない。けれどendを突然迎える前に、自分でそのエピローグににアプローチすることだってできる。おおかた、そこにあるのは、ハッピーエンドにはならない。そこにあるのは確立した自由意志のはずなのに、そこに生まれる葛藤と寂寞の思いと、やるせなさと、えもいわれぬ感情たちは、見事に咲いて自立した花のような勇ましさがない。

そもそも、endが悲しいものである、という既成事実に基づいた相対的な判断に限られてしまっていることも、また良しとしない価値観をもつ人もいるのかもしれない。

…僕は生まれた意味を自分で定義することができていない。だからこの作品の始まりの意義を見出すこともできていなければ、同じように、終わる意味もまだ、よくわかっていない。終わらせ方終わり方も、その後の続編も、まだまだ、創作しようと思うことができない。ここまで歩んできたページを振り返っては、肯定的なイメージで乗り切ろうとしているだけ。きっと、僕が紡いできたページにも、これから作り出すページにも、自分自身では意味が見出せないのだろう。迷いの人生、という原題でもつけてやろうか、と思っている。

それでも、僕は生きている。生きたいと強く願っている。意味はよくわからない。だから、与えられた能力で、ことばを残している。このことばたちは、たちまち僕の後ろのページとして役割を果たすことになる。先の僕がこれをみたときに、なにを言っているんだというかもしれない。時折現れる明るい僕が、このことばたちの意義を編集してくれるのかもしれない。とあるだれかが、この記事を消したらどうなのかと、言葉をくれるのかもしれない。もし、起こした事実が消えても消えなくても、そこに与える意義は自由に変えることができる。編集できない人生ならば救いようがない。救う必要のないものだって、それはそれであるのかもしれないけれど、少なくともその価値判断は、他人の判断のみでやってはいいことではないとも思う。あくまで、編集者は本人の意思を尊重し相談したり交わり合うことでようやく成立するものであると思うから。本来ならば、その編集者は未来の自分であってあってほしい。けどきっと、それが無理な場合だってある。そのときはきっと、力を借りて生きよう。生きたいと心から思えるうちも、そうでなくなった時でも、きっとそうしよう。

今の僕には、後ろのページから力をもらうことすらできなくなってしまっている。理由はよくわからない。だから、せめて今のページを必死になって書き紡げるように、両足で立って歩いていきたい。10ページ先の僕が、たとえ予想もできない物語の中にいたとしても、そこで僕は生きて、この僕という事実を忘れないで、記憶にして。意味がなくても、きっお。

10号室 t tatsu

t tatsu

山梨在住。あっちいったりこっちいったり、浮き沈みの激しい人生。音楽、本、映画やことばを好みます。多趣味多忙が代名詞。 …「あたりまえ」のことは、そうでもない...

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