その人は「本音」を言ってくれた

住人

終わりがゼロではない、カウントダウンがはじまった気がした。

10/13付に日本臓器移植ネットワークから、臓器移植希望登録者証が送られ、晴れて正式な待機者となった。
ますます、「特別感」が出てきて、「普通」の環境との間が開いた気がした。

—————–先日2ヶ月ぶりに職場へ復帰をした。

朝礼で、初めて職場でおおやけに(個別には言っていたが)小腸移植を控えていることを告げた。
いつ呼ばれるかわからないので、また職場をあけてしまうことがある、と。
なるべく自分の気持ちを挟まずに、ご迷惑をかけてしまうことをお詫びし、ご協力のほどをくれぐれも丁寧にお願いした。
みんな声には出さなかったが、(大変なんだな…)(頑張ってな)という感じを受けた。

次の日、休憩所で1人の同僚とお茶飲みながら少し話をした。

なんのことはない話から、仕事の話、自分が入院した時に所属長が代わりの人を探すときかなり苦労されていたこと、それまで直属の上司が自分の仕事を変わってくれたこと、という話になった。

自分の父親より上の再雇用の職員。

「小腸移植ってあんまり聞かないもんな。頑張ってほしいって気持ちだよ。でもな「え〜?」っていうのもあるんだよ。正直な話な」

1人の「人」として、大変な病気の大変な治療に向かう同僚へ「頑張ってな。元気になるといいな。応援してるよ」という気持ち。

一方で、仕事を一緒にする共同体の一員としての気持ち。
近いうちにその場を1年以上離れることがわかっているにもかかわらず何故戻ってきたのか。
所属長は他の人探すのも大変だし、今回の代替の人も苦労していたよ。どうあったって迷惑がかかるんだよ、と。

直属の上司は、体調悪くして頻繁に休む自分に一度たりとも嫌味ひとつ言わない人だ。
だけど自分がいない時は、ただでさえ多い仕事量に、私の仕事が重なってくる。代替の人が来たらその人に仕事を教えなければいけない。
大変なのは当然だと思う。

「気兼ねなく休んでいいからな」とみんな言ってくれる。
お休みは規則の範囲だし、法的にとがめられることはない。

でも自分自身が心の底から「気兼ねなく休んで」は多分いけない。
「休むのは労働者の権利だから当然でしょ?」みたいに思うのはいいのかもしれないけど、それをおくびにでも出せば反感を買う。
そうじゃない「場所」もあるんだろうけど、自分が今いる「場所」はそうではない。

自分は、仕事は得意ではないし、どちらかというと同業からするとしょぼいが、人の少ないこの職場では戦力になっている自負はある。
異動が当たり前の職場なので、人が入れ替わることはしょっちゅうだ。
自分より優秀な人はたくさんいるし、逆にクセの強い人もたくさんいる。
その中でいかに「この職場の一職員」として役割をこなしていくか。
これを考えていくのは1人の「人間」でもあり、組織の中で仕事をする自分としてのプライドなのだとも思う。

組織の中で仕事をする多くの人は少なからず覚える感覚なのかもしれない。
自覚するが故に多くの人が、「本音」を言ってくれたこの職員と同じ想いをもつんだろう。
「申し訳なさ」と「感謝」と。
これがこの組織で働いていく上で必要なんだろう。

わかってると思ってたけど、どこか忘れてたのかもしれない。


「お互い様」はわからないし、難しい。

もし他の職員が急に休んで、慣れない仕事をたくさん自分がやらないといけなくなったとき。
めんどくさいけど仕方ない、と思う。
表面では「ゆっくり休んで元気に戻ってきて」とするだろうけど、その人の仕事を代わったところで僕の給料が増えるわけではない。

職場として必要なこと、大事なこと。

自分は「他の人とは違う」とどこか思っている。身体も心も。
同時に、自分の「普通」なところも実感している。

組織で仕事をしている人間としての「普通」の自分。
社会の枠をなんとか外れないようにと”一般に許される範囲の個性”を売ってる自分。

個性の蛇口を全開にして過ごすことは好きじゃない。
「普通」の道をはみ出さないように歩き続けることもできない。

「普通」と「個性」とのバランスを取りながら過ごしていきたい。

「普通」の人の優しさ、怒り、嫉妬、同情、めんどくささ。それらを享受することは、決して誤りではないと思う。

自分なりの「個性」を楽しみながら、好きなことややりたいことを探していくのは、決して贅沢ではないと思う。

自分の、人とのコミュニケーションや距離感の取り方が苦手な部分を、「職場」というフォーマルな場は包んでくれる。
引きこもりに身体的に精神的に”なることができてしまう・その状態に耐えられてしまう”自分からすると、「仕事に行かなければ」という制約は体を動かし、頭を働かせてくれる。
人と接する機会が持てる「職場」は生きている実感を与えてくれる。

「職場」に苦しめられて一時期やばかった時もあったから、運や人との相性(この言葉もそのうち分解していきたい)という自分ではある意味どうにもできない要素も含んでいるのは承知している。

今回、なかなか「本音」を表に出さない「普通」の「職場」の中で、言いにくい「本音」を言ってくれたことで僕はなんか楽になった。
その時の自分の状態や相手の言い方によるだろうけど、相手は言葉を慎重に選んでくれた。
そういう人に、職場は出会えることもある。

突拍子もなく面白い人は少ないかもしれない。
自分と気の合う人は多くはないのかもしれない。
自分のワクワクやドキドキを加速させてくれるような環境も、あまりないのかもしれない。

だけどそれがいい。

「おはようございます」と毎朝言える場所があることが、とても大切なのだから。

sarami

生き意地の汚い人生を 送っています。

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