やじるし
やじるしをもとめて、僕は歩き続けていた。
何かをするとき、何かが返ってくると信じて、歩き続けていた。たとえば、人に何かをしてあげようと思った時には、当たり前のようにそこに、「ありがとう」を求めていたように、自分が何かのためにすることに対して、いつの間にか、メリットや「ごほうび」を、考えながら行動するようになってしまっていた。
もちろん、会社で働いてる時なんかには、行動や目的の先にあることをまず念頭において考えることは、当然のことなのかもしれないけれど、でも、相手が社会や会社に変わっただけであって、その根幹にあるものは、人であることに変わりはない。その人、つまり会社や社会に、常に僕は見返りを求めてしまうのか?そう考えた時に、何をやっているんだとまた、自省の念にかられつづけて、ビールを飲み干してしまう。あいもかわらず、人ひとりが経験できるこの刹那に、全て意味を持たせるという切望から、少しだけ考え違いをしてしまっていたようである。
つまり、
やじるし、を相手に向けていたつもりが、その先には、結局自分に向かってきてしまっていた、ということ。それは、とってもありがちなこと。慣れ始めた淡い同棲の日々なんかだと、なお起きるのではないか。ちょっとそれとって、はいよ。…なんだよ、とってやったのに。そんな些細なささくれは、いつのまにか大きな切り傷になって、後々に自分のことを苦しめてしまうのだと、その時は気づくことはできない。厄介なことに、それに気づかなければ、相手のために向けていると勘違いした矢印のニュートンが、どんどんと、膨れ上がってしまう。ありがちなこと。でも、ありつづけたら、いけないこと。
やじるしを、与えようと思ったのなら、最後までただ、与え続けよう。
やじるしの向き、いま、どっち?
与え続けることは、健康だと思う。与えられることを求め続けることよりは、少なくとも。いつも、自分がしたいと思うことに正直であろう、という意識で生きていたいけれど、どうしても何かが邪魔をしだす。そのときは、きっと、他でもない自分のやじるしが、自分の障壁になってしまっているんだろう。
取り除かなくていい。ときには、そのやじるしについていってしまうことだって、重要なのだとも思う。けれどきっと、そのやじるしを信じて動くからには、そのままやりつづけていかなければならないものだと思う。その先に、例えなにかかたちになるものがなかったとしても、やじるしを、与えることを決めたのは、私自身なのだから、私はなにも損しない。私はなにも失わないない。そもそも、失うために、やじるしを向かわせてない。そのことを忘れるときっと、やじるしはいきなりこちら側に向けてささってきてしまう。
物事は何事も、危ういバランスのなかでうまく、均整がとれて成り立っていると思っている。良好な人間関係も、一言傷をつける言葉をいってしまって(そこには本心で思っていた、という裏付けをしてしまう意味も含むけれど)その瞬間からもう元どおりにならなかったり、目の前に「有る」ものを壊せば「無い」ものになってしまったり…やじるしも例外じゃなく、相手に向けたつもりのやじるしが、いつのまにか、わたしを向いていることだって、よくありがち。人間だもの。
でも、それでもずっと、信じて、修正して、やじるしを相手に向けつづけてみたい。そこに、何万回の裏切りや無視があってもなくても、関係ない。わたしから発信された行動や言動が、他の人の責任になることはないのだから。わたしが、わたしの意思であげつづける、「プレゼント」として、わたしのやじるしは、わたしが向き合う一人一人の人に対して、向かっていたいのです。
ずっと。
2020年に、別れを告げる21日前。
おどりば10号室より。
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