直観と理性

住人

最近2人の友人とオンラインで話をした。

今回はその話をしたいと思う。



一人目は、大学時代の部活の同期。大学で別れて以来実に5年ぶりの再会(オンラインだけど)

きっかけはそいつが挙げたfacebookの投稿。
「新しくこんなことをしようと思う。顧客情報を得たいので興味ある人は連絡ほしい。」と言っていて「おー、頑張れ!」と思っていいねを送ったのがきっかけ。でも、大学以来そいつがなにをしているのか全く知らなかったから、純粋にそいつの話が聞きたいと思った。

そしたらびっくり!
そいつは、大学院卒業後、その分野では最大手の企業で働き、そこをやめベンチャーでスタートアップをやり、でも自分のやりたいこととは違うと思い、今回自分で起業しようとしている、という。


純粋に「かっこいい」と思った。

話を聞いていけば、そいつがやろうとしていることがある意味「夢物語」のようなスケールの大きいことで、でもそれがなおさら「かっこいい」と思った。

自分の「直観」を信じて、自分の夢に向かっている姿に「かっこいい」と思った。





二人目は、大学・大学院と学科の同期でいまでも同じ教員として話に乗ってもらったり、遊んだりする仲のやつ。

そいつはそいつで、私の中では「尊敬する」やつ。

なんでもちゃんと「なんでそうなるのか」「本当にそうなのか」と考え、哲学的というのだろうか、論理的というのだろうか、とにかく「考えが深い」やつ。
そして、とにかく知的好奇心が強くて、「学問」を自分で究めている。そんな姿に「すげえな」と思う。





さて、最近私が話した、同期であり、自分が「すごいな」「尊敬できるな」と思う二人。


自分がその二人を添う思う根源は何だろう?












”自分にはないものを持っている”


これが大きいように思う。










でも、その”自分にはないもの”とは何だろう?










直観で「これは違う」と思い、今いる企業をやめること、そして自分の直観を信じて、夢に向かって突き進む姿。





「教育と宗教の違いってなんだろう」「この人がこういう話し方をするのはなぜだろう」と自分で問いをつくり、それを内省し、自分に腑に落ちる形に落とし込む姿。










「直観」と「理性」




相反するその二つ。

それぞれに秀でた二人の姿に惹かれた自分がいる気がする。






でも、よく考えると、その二人は「直観」と「理性」どちらかに秀でているわけではない。



一人目のやつは、ただ「思いや夢」があるだけでなくてちゃんとその実現のために企業とマッチアップしたり、実現のための具体的な道筋まで考えていた。

二人目のやつは、目の前の子や相手が考えることを感じる「感性」も高く、教員以前に人として目の前のこどもや、ほかの人など、自分以外の人の視点を常に持てるやつ。





「直観」と「理性」




どちらも、すべての人に備わっているものだと思う。







では、自分との違いはなにか?


















結局は、



自分の「直観」や「理性」を『信じる』ことができるかどうか



ということ。







「直観」も「理性」も、どちらかだけではいけないのだと思う。







どの場面で自分の直観を信じ、どの場面で自分の理性を働かせて動くか。

その使いどころも「自分の直観」なのかもしれない。




とかく自分は、一人目のようなやつに会うと「直観って大事だ」と思い、二人目のようなやつに会うと「理性で動くのは大事だ」と思ってしまう。


でも、「直観がいい」「理性がいい」のではない。


自分の「直観や理性」を『信じること』が大切なのだろうと、今の自分を俯瞰して思う。


あかっぱ

よく中学生に間違われます。「見た目はこども、中身もこども」な25歳です。

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