夢の続き

住人

2月に長野へ帰ってきた。
9か月住んだマンションから離れるのは、嫌だった。
初めての東京、初めての一人暮らし
初めての街、初めてのコミュニティ。
すべてが心地よく、ここでこのまま過ごせたらどんなに良かったか。
でも、引っ越しの日には出ていかないといけない。

後ろ髪惹かれる中、仮住まいを後にした。
ーーーーーーおよそ1年ぶりの長野は、寒かった。
底冷えする寒さ。むき出しの肌を刺す風。
帰ってきてしまった。

4月からまた仕事が始まる。
気持ちが全く乗らなかったが、先行くものがないので復帰するしかなかった。
そこまでに体のメンテナンスをしようと思った。
12月ぐらいから右足を痛めていた。
住んでいたところの近くの整形外科で診てもらっていたが、シップを貼っても良くならなかった。
帰郷後、地元の整形外科に行った。
レントゲンを撮ってもらったが、異常がないという診断。

んーなんだろうなー東京で歩きすぎて足痛めたのかなぁ。

そう思って首をかしげていた中、翌日。
前日行った整形外科から電話が来た。
気になることがあるから来てほしいとのこと。
昼前にゆっくりと来院。別のところのレントゲンを撮ってもらった。

「股関節と大腿骨の組織が壊死(細胞が腐っていること)してるね」
冷静にドクターが言った。

特発性大腿骨頭壊死

軟骨の細胞が死んで、大腿骨と股関節の骨が直接当たって痛みを生じさせる病気のようだ。
レントゲンを見ると、すでに大腿骨の骨頭と呼ばれるところは折れていた。

小腸移植で1年間ステロイドを使っていた。
それがどうやらいけなかったようだ。
自分の病気は栄養吸収に影響がでる。当然その影響は成長段階で骨にも渡っていて、骨密度検査は「健康な60歳」と喜んでいいのか微妙なコメントをもらうぐらいの骨粗鬆症だった。
親は自分が小さい時、当時の医師から「これからも骨折を繰り返すでしょう」と言われたらしいが、この年まで骨が折れたという記憶はない。
転んでも骨は折れなかった。

壊死の段階は4段階あって、すでに3段階まで進行していた。

「ここまできたら人工関節だね」

わお。
CVC(中心静脈カテーテル)から離脱したと思ったら今度は人工関節ですか。
普通はここで落ち込むのかもしれない。
生まれつきの難病が治ったと思ったら、モノホンの国指定難病になったわけだ。

母親は落ち込んでいた。
そりゃそうだろう。
やっとよくなって4月からまともな生活を送れると思ったら、次はガチの指定難病だ。

ただ、自分は…笑いが止まらなかったwww
自分の体は簡単にうまくいくわけがないのだ。
うまくいったためしがないのだ。
今回はあまりに順調に行き過ぎた。
90点取ったと思ったら68点だったというのはなんら珍しくはない。

ただ、最終的になんとかなる。
運命というものを信じているわけじゃないが、実際にそうだったのだ。


移植をしてくれたドクターも落ち込んでいた。
人工関節という異物を入れるというのは、大きな手術だ。ましてや免疫抑制剤を飲んでいるから、調整が難しいのだというのは想像できた。
ただ、体のことは正直何とかなると思う。
誰かが何とかしてくれるのだ(人任せ)

唯一なんとかならないかもしれないということは、本業の休職期間だ。
生涯通算3年という規程のなか、既に2年6か月使用している。
回復して仕事に戻れるまで2か月。
2か月延長になったら、残2か月。
これを過ぎたら職をなくす。
医療保険料、年金保険料などドッと来る。
CVCがなくなったからおそらく今年の更新で障害年金はストップする。

ただ、これは自分個人の問題ではない。
現在日本には働く意欲があるけど仕事がない人が171万人いるといわれる。
そのなかで病気が理由となって仕事に就けない、退職した人もいる。(具体的な数はわからないけれども)

“ベッドで稼ぐ”

コロナ禍でオンラインが加速した。
オンラインが前提になりつつあるなか、オフラインの価値も高まってきた。
常に考えるのは「次どうするか」「生き残った後、どう生きるか」
やれることはたくさんある。できることも、学べることもたくさんある。
病気を武器にするのではなく、そこで得たものをどん欲にベースとする。
本を読む時間もあるし、資格の勉強をする時間もある。
正直、今の立場は不自由だ。収入に不満はないが、立場で限られている。
単なるリスクヘッジではない。
自分の身一つでいかに立つか。

もうちょっと、長い春休みが続く。
自伝のネタがまた増えていく。

sarami

生き意地の汚い人生を 送っています。

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