とりとめないみとめない

住人

命を奪ってまで、

得たい承認、それほどに人間は欲が深いものなのだろうか。

命は全て尊いものであるから、それをむやみに奪うことは許されることではない。だけれども、もしそれぞれの意思があって命を投げ出すという選択をすることを、止めることは必ずしも正解であるとも言えない。けれど、それぞれの決断や選択の中に、

認めない、認めたくない

それがもしあるとするならば、それはあるべきことではない、悲しいことだと考えたりしている、このごろ。

人は、他の動物たちと違って、話すことも、脳内を共通の認識にある程度染めあうことができる、とんでもない生き物で。しかも、かつて地続きだった大陸が地球の営みで離れていって、それを繰り返すことによって、それぞれ文化が生まれ、いつぞやから言語や宗教なんていうものが場所でそれぞれ大成していって、それが、いつの間にか何百、何千、何万もの独自性を確立するまでに至っている。元々、同じ人間なのに、言葉の使い方や認識や、それぞれが信じないものを信じている人が目の前に現れると、なぜ人はそれを「敵」だとみなしてしまうのだろうか。

1つに、相容れないものはいらない、という人間の性悪的な考え方があるような気がする。自分の考えは自分にしかないものだから、というある種諦めのような自己は、時に冷淡に他人を寄せ付けないものになってしまうことがある。私は私、人は人、それは素晴らしいことなのに、それを共有できないものは排除する、寄せ付けない、という考え方は、「最近の若い人は、、、」と言われる我々上下ー5歳くらいの人たちには共通するものなのかもしれない。けれど、歴史を振り返れば、とある宗教を信じる信じないで虐殺が行われるくらいに非常で冷淡で、とんでもない考えであることも確か。現代の若者は無関心であることに対して、現代に適応した国家同士になったりすると、それは介入して消すべきだという排除主義に変わってしまうのはなぜだろうか。

→そこで、出てくる人間の感情は、「認めない」という不寛容であるように思える。

自分より優れたものを見ると、悔しい・そうなりたい・追い越したい…そんな風に、ジェラシーを感じたり、また競争心を追い立てたりすることはまだわかる。けれど、過激思想の方面に持っていけば、それは消すべき、消したら消した側が強いのだから我々が上である、という脳筋のような考え方も生まれることがあるようで。そうなってくると、やはりこの世界から消えた後の話論に持ってかざるを得なくて、日本のように様々な神仏習合思想の国は他にはあまりないようだから、死んだあとにまたやり直せればそれは幸せである、というような発想にもなりかねなくて、またそこには神様のご守護があるから、というように、見えない守備力を兼ね備えた戦士たちが集まれば、もうそればはどうしようもなくなってしまう。戦争は、起こるには様々な要素があるし、守るものの大きさや原点に立ち返ったときに、どうしてもその選択肢をとるというような状況があるのかもしれないけれど、少なくとも、今生きている状況下から、それぞれの死後が未確定な状態で、突っ込んで一世一代の勝負に出るのは、なかなか勇気がいることだともおもっている。それを、やってしまうほどに、認めないという力は、強い。許容範囲、ってのはいくら広くても足りないほどに、人はよく過ちを犯すし、そういう生き物であるとつくづく考える。

 不寛容、は命を投げ捨てることもできる、ということを上記に書いた。もっと身近な例でいけば(これを身近でない、という風に言っているわけではなくて、まさに対岸の火事のように考えているわけではない)恋愛模様だってそうだと思う。例えば、ずっっと長く春を迎えていた2人の間に亀裂が入る理由として、お互いの家族との価値観の相違、なんてことを見受けたことがある。お互いのことは認め合えるのに、どうしても色々な理由が重なって、それがきっかけで離れてしまう、なんていう悲しい例もあるようで。二人だけの問題ではない、という意見もさながら、社会人であり2人はいち人間である以上、その責任は2にんにあるものなのだから、2人に任せればいいという意見もあるだろうけど、それでも、そこが認め合えないと、これからの介護や生老病死のいく先々で多難になるから、ということで、いつの間にか結婚が認められなくなるものもある。もっと前の段階で言えば、お互いのここが気に入らなくて認められないから別れる、という選択になることもある。

 どの段階の、どのパターンの人でも、起こりうること、人は国家でもあるから、それがそんな大きさになっても起こりうること。

寛容、不寛容、その相対的な感覚では表せない事情や様々なものごとがあるけれど、人はどこかしら認めてほしい、と思う欲求があると思う。マズローの例のアレのように、どうやっても、生まれてきてしまうものなんだろう。いつ、どの時代でもその欲望と葛藤が入り混じって、人が優しくあったり、人が罵り合ったり、時には殺めたりして、自分の欲求を満たして生きていこうとする。いや、生きていこうとすることがもはや目的ではなくて、認めさせる、認めないをなくす、それが目的となって人と接することが多くなってきてしまっているのかもしれない。インターネットと現実社会の隔たりが曖昧になっている今、その社会ではより顕著にそういうことも起きている。

(実体験で言うと、とあるソシャゲをやっている最中に、自分が下手をした時に死ね、と平気に言い放つことができる人。自分がうまい、と言うことを人に認めさせた上で、自分が楽しめない相手にはここに存在する価値がない、と言い放ちそこに存在することすら認めさせない、と言う例。)

 才能が認められる、努力が認められる、存在が認められる・・・

 才能が認められない。

 努力が認められない

 存在が認められない

とりとめのない、認めない

けれど、じぶんだけは、じぶんを認めたあげていたい

いつ何があっても

そうでないときっとこの時間にいることが無意味になってしまうような

そんな感覚に陥ってしまうと思う。

このような世界で、自分を認めることは、どうしても他人と比較してしまいがちなことがたくさんある。これが誰かと劣っている、周りよりもできないそうやって比較して、自分の存在意義を自分で低めてしまっているような、そんなことが多く出てしまう、それはきっと既述のように、周りのことがすぐに見れる時代になったから、と言うこともあるし、さらにはそれを見栄を張って少し盛ったりもすることができるから、ある種フェイクのような「真実」に相対してしまって、まともにダメージを喰らうようなことが多くなってしまったからなのかもしれない。時代がそうさせている、と言う言葉で、収めれればそれもそうかもしれないけれど、それでも普遍的にそれぞれの人種や性別の違いによって考え方や育ち方によっても人の許容範囲や範疇は伸縮するもだから、それも一概に言えない。ましてや、愛の形やその性別の捉え方すら多様性がより見受けられるにも関わらず、自分のことではなく他者を認めない、なんていうおせっかいな話がもっと蔓延しているのだから、むしろ時代はまた退化しているのではないか、なんて見方だってできるような気もする。

 認めあうこと、認めないこと。きっと、必ずしも認めあうことは必要じゃないし、無理なものは無理でいいとも考えている。人は強制されるために生まれてきたものではないとも考えているから。だけれど、認めることはせずとも、せめて

拒絶をすることがなくなりますように。

とりとめのない、認めない、と、これからもうまく、付き合っていかなければ

ならないみたい、だね。

10号室 t tatsu より。

t tatsu

山梨在住。あっちいったりこっちいったり、浮き沈みの激しい人生。音楽、本、映画やことばを好みます。多趣味多忙が代名詞。 …「あたりまえ」のことは、そうでもない...

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