何かがおかしい

住人

何かがおかしい。

1月には今までの病歴をベースにしたストーリーが大手新聞で取り上げられた。
僕のことを知っている人、知らない人に自分のことを知ってもらった。

講演をさせてもらう機会も増えた。
あの時、病院のベッドで悶々と考えていたことを言語化し、たくさんの人に声を届けることができるようになった。

11月に転職をした。
ちゃんとした雇用形態で民間で働くのは初めてだ。
社長一人、県外の女性一人、という小さな小さな会社だ。
給与はまだ満足いかれるものではないが、フルリモートの環境で働けている。
チャレンジしてみたかったWebマーケットの仕事もさせてもらっている。
本業の業態が経理の代行やコンサルをやっているので、会計の知識も入れている。
まだまだ甘さしかなく、指導されることは多いが、それでもなんとかやっていけるそんな気がする。

書く仕事も、少しずつ増やしている。
ありがたいことに、書くということに関して少しずつお金をもらえるようにもなり始めている。

大学の時に縁があった県外の大学で情報保障の仕事をしたり、子どもたちの居場所にボランティアにいったり。

大好きなクラフトビールや日本酒を飲んだり。
今までできなかったこと、やりたかったかもしれないこと、が少しずつ少しずつ形になり始めている。

休日も充実をしている。
少し体調を崩すこともあるけど、昔に比べたら些末な出来事だ。

だけど、何かが、何かがおかしい。
何かが、何かが変だ。

ふと、自室の本棚を見てみる。
少し前までは、小林秀雄やフロム、ゲンロン、内田樹、という著者の本が目についた。
今は、ファイナンス、セールス、ミスしない工夫、SEOライティングという本が目につく。

本を読むのは好きだ。
知識を入れるのも好きだ。
自分で考えて、書いたり話したりするのも好きだ。
前者と後者の違いを考える。
How toかそうじゃないかみたいなのはもちろんある。

ただ、少し前までの本棚と、今の本棚とには中身に決定的な違いがある。

やさしさ

前者はやさしいのだ。時間軸で理解することを強制しない。
語り口調や伝わってくるもの、頭のどこかわからない部分と共鳴、リンクするもの。
読んでわかったふりになって、無理に言語化をする必要がない。
何年か経って読み返してもその思想はそこにある。

そういう本を、ずっと読み、背表紙を眺めてきた。
どんな時でも、僕は本に囲まれて育ってきた。
ちゃんと数えたことはないが、500冊をゆうに超える本たちと共に、実家の一室でずっと過ごしてきた。

何か変だ。

何かがおかしい。

それは「ここにいるからいつでもまた目を通してな」というものから、
「今お前が読まないといけないもの、理解をして活かさないといけないものは俺らだろ」という何かの外部圧力のような、市場のサイクルのようなものに当てられてしまっているからだろう。

それなら整理をすればいいじゃないかと。
だが、去年入れた人工関節で屈伸運動をすると、痛むのだ。
本を持って移動させることがなかなかかなわない。
はかどらず、ただただ時間だけがすぎていく。

何かがおかしい。
やはり、おかしいのだ。

また考える。

この二つに共通してることは何だろう。
なぜこんなに、後者はやさしくないのだろう。

「社会は、甘くない」

この言葉が出てきた。


生きづらさ、という言葉は嫌いな方だ。
生きづらさの使い方は、外部へ伝えるときに使う。
生きづらさ、という言葉は自分の内側に向ける言葉ではないのだ。
生きづらさと、甘さ。
これがやはり妙に引っかかる。
妙な共通点を感覚で感じる。

他者は、社会は、ひとは、自分は。
もっと、やさしくていいはずなのに。

sarami

生き意地の汚い人生を 送っています。

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