mit mer

住人

「戦わなければ 勝てない…」

by エレン

…でも、私自身は、相手に必ず勝てる戦いでなければしたくないし、まず恥をかくことにものすごい抵抗を覚えていた。…そのようになったのはいつからだろう、と最近思い悩むことがよくある。それは、自分が身を置く環境が変わり始めていること、そして、今まで自分が失敗したりうまくいかなかった点に、このことがものすごく影響していると考えたからだ。

―中学生の頃の話ー

● 部活は陸上部に所属していた。3年の夏までは、短距離ばかりやっていたのだけれど、冬の駅伝があるということで、受験に集中したい人はそれでよいということで、部としても希望者のみを募った。僕は、短距離で未練を残していたため、長距離に挑戦することにした。最初の大会、3000m。一発決勝だったけれど、なんと人生初のびりを経験した。

恥ずかしい。消えたい。

小学校のころ、いじめられていた経験もあって、いじめていた人を見返すためと、自分自身を変えたいために陸上をやって、校内での短距離の速さは少しあがってきていた矢先、県では中堅より上くらいでしかなかった自分が、ここで完全に打ちのめされた感覚だった。もう、何もかもやる気がなくなりそうだった。

父親がかつて陸上をやっていたこともあり、話をしてみた。父は運動神経抜群で、自分よりも何でもできたので、もっと走れば必ず早くなる、といってくれた。短距離は、天性のものもあるから、なかなかどうしようもないこともあるが、長距離はある程度努力でカバーできる、と。

…これが、本当にとんでもなくつらかった。苦手、なことを苦しみながらチャレンジするのだ。この経験はなかなか多くするものではない。けれど、学校生活では、それを経験できることに関しては、義務教育は素晴らしいものだなとも思う。今、大人になって、したくないことからは完全にすぐに逃げれる状況だし(もちろんそこに自分の責任がつくが)しなくても、生きていけることがいくらでもできる社会環境にはなった。けれど、ここで逃げずに1回でも経験値があれば、何かの逆境にぶつかったときに、成功体験として自分の力になるものだと考えている。その面では、私の経験は無駄ではなかったのかな、と思う。

結果が出ないときは、そのときの恥ずかしさや、余裕で走る早い奴らをぶん殴りたいという一心で(言い過ぎ)走ったような形だった。おかげで、タイムも3分ほど縮めて、全国からみたらかけ離れているけれど、自分比では異常なほど速く走れるようになった。上を見ればまだこの努力も足らないものだったのだけれど、今回、ここで重要なのは、恥を受け入れることが出来ていた、ということ。自分を許す、認める、ことがいい意味で出来ていた、ということ。これが崩れたのは、「失敗が許されない」と脅されてきた社会人の環境によるものだったような気がする。

脅したのはほかでもない、自分自身だ。トライアンドエラーを掲げているにも関わらず、いざエラーをすればヒステリックになるくらいに自分が許せなくなるし、他人が恨めしくなるし、完全なんて人はいないのに、指摘をする人の荒を探し始める、いわゆるアダルトチルドレンの典型のような思い込みをしたあとには、自分の能力値の低さを嘆いて自分を消そうとすることだってなかったわけではない。なぜなら、失敗して相手に迷惑をかけることが自分の中で、絶対に許せないからだ。

でも、その本質は、自分自身を認めることができていない

から、なんだということは、頭の中ではわかっていても、なかなかできることではなかった。それが、今までのマイペースが仇になっていたり、見方を変えた、自分を認める(あきらめの意味)ことによって、できるものもできない、機会ロスを何回も生み出す、という結果に表れてしまったんだと思う。恥ずかしさ、は先に経験することにこしたことはないな、と強く思うし、いつまでも恥ずかしいことはたくさんあるな、とも改めてとても多く思う。おっちょこちょいなので、よく身だしなみの中でたまに落ち度はあるし、気合をいれればなにかを忘れてしまうし(発達障害か?は調べ中)そんなポンコツなこともたくさんあるけれど、それ以上に、何か大きな絶望と思いこんでいた失敗やできないこと、に異常に反応するのは、大きなトラウマといつの間にかできなくなっていた、自分に悔しいと強く思って乗り越えること、苦しいことを頑張るだけの大きなガッツと、知ってしまったうまい逃げ方を使いすぎていた、ということに他ならないなあ、と最近、よく思う。

画像のような、夕日を見るだけで、明日頑張れるってなって勉強していた中学生のころは本当に、強い精神力であったと思う。…それでも、やはりそのころから少し周りを気にしすぎるHSPみたいなところがあったんだと思うけれど。でも、今、正確に言えば、何年か前から、できなくなっていた…いや、目をそらしていたのは、そういうところだと思う。そして、今は、それを乗り越える、乗り越えて今までにない境地にいることができる環境に、ありがたいことに立たせてもらっている。

忘れないようにするべき、私らしさは、ここまでこんだけ、悩んで苦しんできたのだから、いつでも戻ってくることが出来ると思う。でも、今まで本当に好きではなかった類のものが、それが社会を動かす1つの原動力であるということを、どうしても受け入れてやらざるを得ないのだなあ、社会とは、と思って辟易としつつ、ジキルとハイドになってみようとも思っている。

mit mer 

ドイツ語っぽい(実際それぞれ要素あるけど)、造語です。

思い出してみよう、今を生き切ってみよう。

10号室 t tatsuでした。

t tatsu

山梨在住。あっちいったりこっちいったり、浮き沈みの激しい人生。音楽、本、映画やことばを好みます。多趣味多忙が代名詞。 …「あたりまえ」のことは、そうでもない...

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