私のヒミツ。
これが私の記録。
私の中の「ふつう」や「あたりまえ」の生まれるところ。
0-5歳
私は、年末年始も差し迫るからと祖母が急かして、町の産院で産まれた。誕生日はクリスマス、イブではなく12月25日である。
1番古い思い出は4歳くらい、外国航路に乗船していた叔父が大怪我をして、病院にお見舞いに行ったときのこと。そのときからたぶん病院が嫌いで、病人が怖い。
保育園は楽しかった。隣のお寺の縁の下で、アリ地獄を埋めて遊んだり、春と秋に縁日の露店が立って、おばあちゃんの売る黄色いシャリシャリしたアイスクリンが好きだった。お昼寝時間、ずっと起きて先生の会話を、盗み聞きしたこともあったっけ。
6-18歳
小学1年、隣の席の男の子が好き、ってラブレターめいた作文を読み上げ、からかわれた。先生に編み物を習いながら給食のアップルシャーベットをもらって食べたり、いまではあまりやれないことをやっていたのかも。
中学入学式で、またまたおかしな代表挨拶文を読みあげた。朝・昼・放課後と長期休暇は合唱部三昧で、県大会に出場。家庭科がおばあちゃん先生で、校庭の桜の葉の塩漬けで桜餅を作ったり、教科書にない体験だった。
高校では授業より放課後、部活の垣根を越えた仲間と過ごすのが好きだった。まだ2歳か3歳の末の弟を見に、仲間が家に遊びに来て、ポップコーン作ったり、スイカを食べたりの夏。マンガが好きで同人誌活動をしていたのはこの頃。
19-26歳
私は高卒、まだバブルの余波があった頃に建材会社に就職。高校は普通科だったけど、設計部と積算部を移動しながら6年くらい勤めていたかな。学生のときの仲間と、同人誌即売会の団体作って、運営した。
会社を退職した頃、ちょうど新潟市芸術文化会館が開館。私は演劇が好きで、社会人劇団と市民ミュージカルのスタッフを経験していたから、開館記念ミュージカルの制作のボランティアをやった。楽屋で、音楽担当の宮川彬良先生と話ながら、楽譜や台本のコピー、ケータリングがお仕事。
27-43歳
結婚後、たまにパート仕事しながらの夫婦2人生活の中、イベント企画が好きで、参加も好きで、わりと好きなことして過ごしていたっけ。
中心部からちょっと離れた、鉄道のまちに家を建て、商店街とか行政の委員をやったりしてまちづくりに興味を持ち、講演会にでかけたり、地域発信したり・・・。
両親の方が問題あったな。父が詐欺にあって離婚して、母の家族が立て続けに亡くなって一段落の頃、だんなの県外転勤についていったのが、長野との出会い。
はじめまして松本市、そして長野市。
父は、いままで波乱万丈の人生だった。父の母は父が幼い頃亡くなり、母方の家で育てられ、母に熱烈アタックで結婚し、胃がんになり、詐欺にあい、離婚し、火事で家と息子をなくし、売れない実家の土地に大工だから家を建て、家の完成間近で脳梗塞で倒れる。
これは、父の人生であって、私の人生ではない。
44-47歳
私は長野からの通いで、家族のいろいろな手配をしてきた。
そんな中、同居のだんながウツ発症で仕事に行けなくなる。
異動をお願いして、信州3年で新潟に帰宅し、いまはゆるりと生活している。
これが私の記録。
途中、家族との記録が交錯したけれど、私の中の「ふつう」や「あたりまえ」の生まれるところ。
そして「しあわせ」の生まれるところ。
私があなたと関わると、そこで記録が交差する。
私とあなたと共通の記録になる。
私の記録を読んでもらうことで、あなたの頭の中で、私の想像の人生が広がる。
私の中には、私の考え方があって、それはたぶんあなたには理解してもらえないけども、私とあなたの人生が織り合わさって、そのとき私のことを少しでも感じてもらえたら、私は「しあわせ」って思う。
しあわせって「なる」んじゃなくて「ある」んだよ。
「しあわせは見つけるもの」なんだって。
氷山の一角だけの私、ホントは海の中にいっぱいいっぱいヒミツがあるんだよ。
私のヒミツ。
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