大事なものは見えにくく、わかりやすさは罪になる
昔、池上彰氏が好きだった。
こども病院に入院していた頃、毎週決まった日に週間こどもニュースを授業の一環として流していた。
手作り感満載の模型を使って、優しい口調で世の中で今起きてることを語ってくれる。
大学生の時は講演会にも行ったことがある。
本もたくさん買って読み漁った。入院するときにも大量の池上彰本を持って行ったし、「わかりやすく伝える技術」は擦り切れるまで読み、学生の時の発表時にものすごく役に立った。
だけど、ある時から途端に興味がなくなってしまった。
きっかけはよく覚えていない。
ただ、「わかりやすさ」に危機感を覚えてからだった。
わかりやすさはあくまで入門編で、そこで止まったらその根っこや背景がわからなくなる。
わかりやすさというものに、ものすごい脆弱さを感じた。
何かを極めた人やその道の第一人者は一般に難しいことをわかりやすく話す、とも言う。
インフォームドコンセントは本人が理解していなければ成立しないから、ドクターはこちらが理解しやすいように話してくれる。
命に関わることは理解しようと必死になる。質問をする。「これってどういうことですか?」と。
理解しやすさと、わかりやすさは違うと思う。
以前、おてあらい花子さんがTwitterを「流動食」と言ったおどりばを読んだ。言い得て妙だ・・・と感じた。
よく、SNSは承認欲求を満たすために設計された脳内麻薬のツールだと言われることもある。
Twitterは様々な人が様々な用途で使えてしまう。
日常の何気ない呟きから、公の情報、地域活動、ビジネス…。
本来Tweetは「つぶやく」という意味であり、Tweetには意味はないはずだ。というか、意味をもたせてしまったらそれはTweetではなく、claim(クレーム)ではないだろうか。
今のTwitterはclaimで溢れている。
どんな有益なものであれ、意味をもって伝えるとそれはclaimとなる。
脊髄反射的な感情をぶつける人や時もあれば、冷静に情報を提示・整理して考えを示す人や時もある。
意味のある言葉に、意味のない言葉は簡単に負けてしまう。
特にポジティブな意味のある言葉は絶大だ。
意味のある言葉には「伝える」という意味合いが意図的に含まれる。
「伝える」のと「伝わる」のは別だと思う。
《場面による》は前提。
でも、考えなければいけないところまでわかりやすく伝えてしまおうとしてる気がする。
脳の筋力をふにゃふにゃにしようとしてる。
主体はマスメディアだったり、書籍だったり、YouTubeだったり。
「これはどういう意味なんだろう」を考えさせないかのように。
わかりやすいものを求めるように。それこそ流動食で栄養だけ確保されているように。
これでは答えのない問いに、自分の今の答えを見出すこともできない。
「社会は自分で課題を見つけ、それに対して自分で答えをつくっていかないといけない」
社会人になっていろいろな先輩たちに言われた。
だけど、その先輩たちがつくっている答えは、『人によった』。
恐ろしいほどに差異に溢れていた。
良い仕事をする人と、とんでもない仕事をする人の差がものすごくあった。
これが本当に「個性」なのだろうか。
疑問は尽きない。
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