1.10.100.1000.10000

住人

今日も、また1日が終わっていく。

その1日が、10日、100日、1000日と重なって

人それぞれ、約30000の一生分の日程を終えていく。本当に、1人1人の時間や人生なんて、ちっぽけでちっぽけでたまらない。

でも、その一つ一つは、本当にかけがえのないもので、取り替えることなんてできなくて。

小さな小さな、1の積み重ねが10になって、100になって、やがて1000になって…どんどん大きな数になっていく。それは、売り上げもそうだし、歩数計の歩数だってそうだし、寿命もそう。

逆に、お金とかの場合、10000円から使っていけば、どんどんと減ってきて、少なくなっていく。でも、その最小の値はやっぱり1だから、1をないがしろになんて、できないんだね。

だから、1人の人間を大切にできないのならば、たくさんの数の人間たちなんて束ねることはできないのかなあ、なんて思う。

たったひとつの商品を大切にできなければ、たった一言を大切にできなければ、たった1秒を大切にできなければ、きっとその先に重ねていった数字のどこかが、嘘になってしまうんだろうな、とも思う。

美しい自然の数々も、一年一年、一歩一歩、着実に全ての工程を経て、この世界に、この状態に、鎮座しているわけで、突然変異でもちろんなったものもあるかもしれないけれど、それを分解していけば結局、一つの分子や原子になって、「もと」をたどることは可能だろう。

わたしの、「もと」は、なんだろう。

わたしを構成するパーツの一つ一つは、なんなんだろうと考えたときに、いくつかのエッセンシャルにいきつく。

いくつもある、その最後に残るひとつは、やさしさ、なんじゃないかな、と思う。許せないことだって、おかしいとおもうことだって、もちろんたくさんある。けれど、僕は、生まれた時に、コウジロウ、と名付けられた。祖父ワイイチロウの次でいい。人の次をいく存在でもいいから、上からだけじゃなく、下からの景色もしっかり見て、ひろいこころで、ほがらかに、人に優しくあってほしいと、名付けられてから、どうやら、その通りの感覚を持ちながら、生きてきたようで。

そのおかげもあって、人を許し過ぎて、自分がダメになってしまうことだって、あったけれど。それでも、僕のルーツは何?僕を構成する1、は何?って尋ねられた時に、胸を張って、優しさです。って言える。

ここまで歩いてきた人生は、決して平坦なものばかりではなくて、むしろおそらく青く見えるような他人の芝生より、もっと荒地を自ら進んできたようなもので、むしろそれを自分から望んでいたような節もあった。だけど、石橋を叩いて自分で壊してまた叩いて渡るようなやり方では、何も生まれないし、誰も幸せになれないことに、ようやく気づけた。

一つ一つの、全てのロードストーンが大事だとはわかっていても、その道において必要のない道標もいくつも転がっているのも事実で、それを取捨選択していく中で、積み重なっている1を引き算したり、掛け算したり、時には割り算して、自分ではない自分を取り込まなければならないときだってあったし、これからももしかしたら、あるのかもしれない。

重ねていく数字は、単に1を足していけばいいだけじゃなくて、時には他の計算も含めて、積んでいかなければならないことだって、ここまで少なからず、生まれてから10000日を越えたようだから、わかってきたような気もする。

忘れたい数字だってある。1を足していけば2.3.4.5と、どんどん違う数字が現れてきて、そのどれもに、いつもに、誰もに、何もかもに、また違った役割が与えられていて、それに影響を与え与えられて、また大きく進歩を重ねていく自分。成功も失敗もいくつも、考え方によってはあるのかもしれない。笑顔ばかりが数字の並びに現れるわけじゃない。

それでも、その一つ一つにはやっぱり意味があって、僕はそれを越えてまた、虹みたいにどんどんと、色を重ねて、数字を重ねて、経験を重ねていく。

過去も今も未来も、どれもが僕にとっての1で、そのどれもが、どの瞬間もが、かけがえのない、本当に大切な宝物です。そのちっぽけな1でさえ、僕を構成する全てのうちの一つだから、どんなものだった僕でさえも、今なら、素直に受け入れてあげられる気がする。

どこか、

理想ではない自分になってしまったときに、言い訳じみてしまったり、これは僕ではない、だなんて、二重人格のように自分を客観視して語ってしまったり、そんなこともあったように思える。1からついにマイナスを選んでしまって、むしろそのマイナスがついた-1をむしろ好んでいたような時期もあった。

だけど、マイナスな自分がどんどんと進んでいくにつれて、マイナスはマイナスとしてかけあって、いつの間にかとんでもないプラスになっていた、なんてこともあるから、人生は捨てたもんでもない。

足すことだって、前に待ち構えていることが大幅にマイナスなことだったら、100たす-1000で-900だった、なんてことだってあったような気もする。でも、きっとそれは心のどこかで恐れを現実化していて、そうなった時はこう対処しよう、とか、どうしよう、の気持ちが強くなりすぎて、呼び寄せてしまっていたような気がする。それこそ、そんなときこそ、自分を自分として受け入れなかったときのこと。

でも、

もう、今は違うよ。

積み重ねてきた、自分だけだと思ってきた、1、に、実はずっと前から数字を付け足してくれていたひとが、ひとたちがいたことに、改めて気づいた瞬間に、僕はもう、大きくなることは必要ないんだ、って思った。

大切な僕という1と、大切な人の1。それを掛け合わせて、1になる。この1はきっと、万よりも、無量大数なんかよりもずっと強くて、スピカより明るい。

僕が、はっきりとした1であれるために、様々な支えがあって、様々なきっかけがあって、灯台下暗し、様々な力が、そこにはある。

今、気づけていなくても

今、不確かなものであったとしても、それは必ず、未来の私のかけらになる。

大きくなることも、必要。そしてそれまでの過程は必ず、どんな未来になろうと、私自身そのものになる。そのなかで、かけがえのないもの、1、とかけあって、確固たる1になるのも、必要。

全ての道は、1に通ず。

だから、一日を、1秒を、一瞬を、一生を、

少しだけ、大切に思って見ませんか。

僕はこれからも、その全てを、受け入れて、取り込みながら、一進一跳していけるように、あゆんでいきたい。

10月10日、10だらけの10の部屋より

t tatsuでした。

t tatsu

山梨在住。あっちいったりこっちいったり、浮き沈みの激しい人生。音楽、本、映画やことばを好みます。多趣味多忙が代名詞。 …「あたりまえ」のことは、そうでもない...

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